2022/03/05更新
今日は建物繋がりでお話しで、お城に関するお話しをしたいと思います。
そもそもお城の定義とは何なのでしょうか?
まず、字から見ると「土」から「成」る物であり、さらには「成」と言う字は「盛」と言う字に通じ、土が盛られた物が「城」であると言うことができます。
外敵の侵入を防ぐためには、まず周りに堀を作ります。堀を作ったあとには、その分の土が余るので、それを盛り上げることで城ができたと言われています。これを始まりとして、時代の変遷とともに城に求められる機能が変わっていくと、建てられる場所や形状などの異なる様々な城が作られることになりました。例えば、山奥や絶壁、丘の上など、天然の地形を生かした城も登場しました。外部の敵による侵入から身を守るだけではなく、兵力が増大していくと城の中に多くの人々を収容することが必要となり、さらには城の外も領地となっていくために、城はどんどんと巨大化していきました。といった時代に応じて変化していきました。これは家にも同じことが言えると思います。
そんな城は全国各地にあり、この志摩にもあります。
その一つで私の出身の波切城を紹介したいと思います。
波切城(水軍城)は現存はしていないお城で、城跡が残っています。
歴史は1363年に九鬼隆良によって築城されました。役割としては、志摩半島に突き出た大王崎は熊野灘と伊勢湾を航行する廻船を見張るには絶好の場所でした。しかも岬の背後には入り江があって船溜まりを擁している点、海を支配する海賊衆にはもってこいの地形でもあった。
波切城を本拠地とした九鬼氏は波切、名田、畔名、立神などの地を支配下に治め、大王崎沖を航行する廻船から通行税を取り立てたものと見られている。従わぬ場合は海賊行為に及ぶこともあったようで、船乗りからは大いに恐れられたという。これが九鬼水軍は海賊と言われた所以でもあります。
1594年に九鬼氏が鳥羽城を築城するまで根拠地となっていました。
現在は「八幡さん公園」となっている城跡がある。入口に石碑「波切九鬼城址」が建てられ、公園に絵描きの像が置かれている。わずかな石垣に面影を残すのみであり、北東に大王崎灯台が望める。
行かれたことがない方は是非、1度行ってみて下さい。
※城跡の八幡さん公園写真